変質者とめまいと。
ぐつぐつぐつ…
コトコトコト…
ある料理の特有のスパイスの香りと、聞こえてくる妙な音。
伏せていた顔を上げて、まだぼーっとする目をこすり前を向く。
キッチンに人影がある。
一体誰だろう。
立ち上がろうと体を起こすと、パサッと何かが落ちる音が背後から聞こえた。
立ち上がり足元を見ると、ブランケットがある。
私、掛けて寝たんだっけ?
寝起きでおぼつく足取りをキッチンの方へ向けた。
徐々に頭が冴えてくる。
そうだった。「変質者」がいるのだった。
さっきまで自分がいたリビングの隅を振り返ると学生服がある。
キッチンでガサゴソと何かをしている「変質者」。
いくらつまらない人生を送っているからと言って、まだ死にたくはない。
さきほどは、眠気とともに簡単にあきらめた命だったが、頭が冴えてくるとやはり死にたくないという思いには抗えなかった。
うしろに下がろうと、足を一歩後退すると、不運なことに、フローリングの床がギシッと音をたてた。
まずい…。
キッチンで何かをしていた「変質者」が動きを止める。
後ろ姿は、Tシャツに学生服のズボン。先ほど、床に散らばっていたものらしい。
身長は180cmほど、まず私の力では抵抗できるわけがない。
逃げようと思うが、金縛りのように体が硬直して動けない。
Tシャツ変質者は、ゆっくりとこちらを振り返った。
「あっ、起きたんだ。もうすぐカレーできるから待っててね」
カレー…。
そうだ。この鼻をつく辛そうでいて空腹を誘う香り。
カレーはいいが、そんなことより振り向いた男は終始笑顔でこちらを見ている。
何の意図もつかめないその表情。
「あなた誰」
私自身が頭に思い描いていた「変質者」の容姿と目の前の男は全く違っていた。
ボサボサとした頭でメガネをかけ、ハァハァ言っている男のイメージとはかけ離れている。
目の前にいる男は、どちらかといえば、そういう男にたかる不良。
白に近い金髪、前髪を赤いゴムで結んで妙な可愛さを演出している。
顔は…メガネはかけていなくて、眉が限りなく細いが、それ以外のパーツはいたって普通だ。
というより、世の女子たちならすぐにでも飛びつきそうな整った顔をしている。
そんな男が目の前にいる。
どうして。
どうして私の家でカレーを作っているのだろうか。
「おれ?…俺は桐生響だな」
名前だけをそう告げると、また桐生響はカレー作りに励み始めた。
ここは私の家で、私しかいないはずのマンションの一室。
今まで他人が足を踏み入れたことはない。
私だけが住み暮らすこの家が、一番落ち着く場所なのに…どうして桐生響と名乗る男が
、さもそこにいることが当然だと言わんばかりにいるのだろう。
そもそもこのマンションのセキュリティーは万全のはず…。
「よし、できた」
思索に耽っていると、鼻歌まじりの男の声がした。
「できたって…あなた勝手になにしてるんですか」
明らかにムッとした声を出してしまった。
相手は「変質者」かもしれないのだ。いけないと思った瞬間、男は、手を振り上げた。
目をぎゅっと閉じる。
しかし男は人差し指を前に出して、「ちっちっちっ」とおどけてみせた。
「“あなた”じゃなくて“響”な」
暴力を振るわれなかったことに、安堵する。でも、先ほどの問いに対する答えがちぐはぐで、ますます意味が分からない。
「そうじゃなくて…」
「さんはい!リピート アフター ミー“ひびき”」
カタカナ発音の英語でそう言われても困る。
「なんだよぉ~ノリ悪いなぁ」
赤いゴムで結われた前髪がちょこんと揺れる。
すると今度は、何かを思いついた表情になり、私のそばに歩みよってきた。
あまりに早いその動作に私は後ずさることもできずに、体を固くする。
「君の名前は?」
名前なんて聞いてどうするのだろう。
これからずっとつきまとって、金をせびるのだろうか。
あの“友人”達のように。お金の切れ目が縁の切れ目。
昔の人は素晴らしいことわざを残したものだ。
私の場合、お金がなくならない限り、縁を切ることができないという解釈だけれど。
「ねぇ、名前は?」
ニコニコと屈託のない笑顔をこちらに向ける「桐生響」。
私は半ば投げやりな気持ちで、自分の名前を告げた。
「白石綾音」
「あ・や・ねちゃんね!可愛い名前だね」
顔をくしゃくしゃにして笑う。
「歳は?何歳?俺は18!見た目より年くってるっしょ?周りからは結構童顔だって言
われるんだけどさ。で、綾音ちゃんは何歳?」
マシンガンのように話す。
何がそんなに楽しいのかと思うぐらい「桐生響」は目を輝かせて私を見ている。
嫌だ。気分悪い。そんな輝いた笑顔…見ていたくない。頭が真っ白になる。
真っ暗な自分が憎らしくなる。
「あやねちゃん?どうした?」
「桐生響」が私の肩に触れようと手を伸ばす。
「ねぇ綾音ちゃ」
「触んないで!」
私の突然の大声に彼は手を退けた。
「いい加減にして、私の前から消えて」
私の体はぶるぶると震えて、自分の体を自分で抱きしめるようにしてしゃがみこんだ。
「大丈夫?」
さっき手を払って怯んだと思ったのに、彼は私にまた手を伸ばす。
「出てってよ…ここは私の…唯一の…」
「桐生響」は何の躊躇いもなく、私の体を抱きしめる。
「居場所なん…だか…ら」
それに抵抗することなく、私は意識を手放した。